調査目的
 本研究は、中国浙江省東南部の蓬溪村、芙蓉村、岩頭村などを対象に、 集落の形成過程及び明代から清末の住宅に見られる空間構成や工法の特徴を、 実測や聞き取りによるフィールドサーベイならびに、文献資料の両面から 明らかにすることを目的としています。 
 

風水
 楠溪江流域の集落に共通する重要な世界観として、 風水が用いられています。「背山臨水」の形が望ましいとされ、 背後に山を、前方に川のある場所が選ばれます。 そして、村が繁栄するようにとの願いから、 文筆峰と呼ばれる尖頭形の山に自然の地形を見立て、 文筆峰を映す池があれば硯池に見立て、なければ人工の池が作られました。

大姓村落
 蓬溪村は、謝姓の同族が住む「大姓村落」です。 村の創始者は、1人が謝霊運(※)の子孫で、もう1人は謝霊運の兄弟の子孫です。 2人は、村を東西に分割し、謝霊運の子孫は西側に、謝霊運の兄弟の子孫は東側に住み始めました。 明代に、大姓村落では村を小隊に分け、8小隊と1大宗祠が置かれ、 やがて集落の生き残りのため、村の統合を図るための大宗祠ができました。 そして、清の時代には祖先を持ち上げ、西に康楽公祠を作りました。 1960年になり、政府の管理強化のため、東側をさらに分割し 「蓬2」「蓬2」とし、西側を「蓬3」として、それぞれに村長を置きました。 現在も蓬2と蓬3は比較的密接した関係にあります。

 大姓村落である蓬溪村は、基本的に謝氏の同族で構成されていますが、 蓬3には謝氏の同族と、昔兵隊としてこの村に雇われた1〜1.5小隊 ほどの周氏が住んでいます。いわゆる「村全体が親戚」である蓬溪村ですが、 その交友関係は、東と西では希薄なものとなっています。

 蓬溪村では、農業が中心に行われ、 メインストリートを挟んで東側には田園風景が広がり、、 村の半分が宅地、残りの半分が田んぼという割合になっています。

※ 謝霊運 …(384〜433)河南省陳郡陽嘉の詩人。康楽公とも呼ばれる。 
 

空間構造
 村の周囲を囲む川は曲線を描き、村の北に位置するあたりで、 村の方角に向かって大きく弧を描いているます。この形状は、 村に狙いを定める弓矢に見立てられ、風水的に最悪なものにあたります。 そこで村人は、村に矢が飛んで来るのを防ぐために、 弓矢の狙う方角に関帝廟を置きました。 村の中央には、南東から北西にかけて一直線に伸びるメインストリートがあります。 直線は、悪いものが向かってくる意味合いを持つため、 それを跳ね返すための三官爺がメインストリートの北端に建てられました。

 メインストリート沿いに建つ李時靖宅は、蓬溪村で最も古い住宅と考えられるため、 メインストリートは、
村が始まった初期から存在したと考えられます。 メインストリートからは、山側に向かっていくつか路地が引き込まれており、 メインストリート付近には古い住宅が見られ、山側にいくにつれて新しい住宅が見られることから、路地は年代を追うごとに徐々に山側に引き込まれ、 発展していったと考えられます。

 ヒアリングによれば、蓬溪村には800戸の住宅と、9つの宗祠が存在します。 このうち、比較的重要であると思われる住宅と宗祠をいくつか絞り込み、 集中的に実測調査とヒアリングを行い、分布の様子を分析しました。その結果、 蓬溪村の宗教施設の多くは西側に集中していることが判明しました。 西の宗祠はもちろんのこと、東のエリアの宗教施設である東宗祠も西のエリアに建ち、 また、周家の宗祠である周家祠や、共同の宗祠である康楽公祠も西側のエリアにあることから、 蓬溪村では、西の方角の方が風水的に優位であると考えられます。