歴史遺産外濠を「まち」として捉える視点

 
 東京には緑が多いなんて良く言われますが、やっぱりとても多いのです。JR市ヶ谷駅から飯田橋駅間の外濠沿は、春には桜、夏には深緑が水面に映え、都心とは思えない優しさを街並みに与えてくれます。幅が40メートルにもなるこの緑のお堀が、何百メートルにもわたって都市の中にに横たわっているのだから、その風景は圧巻の一言です。しかしながら、外濠のほんとうの魅力というのは、実はそれだけでは語れないのです。

 
 多くの車が行きかう外濠通りから一歩、新宿区側の斜面地へと入り込んでみます。そこには江戸時代から全く変わらない道と、ちょっと変わってしまった建物による、静かな住宅街が広がっています。斜面に沿って心地よく曲がる坂道を登ると、道の両側には屋敷の塀から緑がのぞき、斜面側の建物の隙間や開けた場所からは外濠の水面や、対岸の街並みなんかが垣間見えたりします。道幅は狭く、くねくね曲がりくねって、坂道も多い、よって車はほとんど通りません。見かけるのはこの辺りに住む散歩中の子供とお母さん、道上で横になって休む庭師のおじさんなどなど。そこには静かな生活空間が広がっています。
 
 
 さて、外濠は現在国の史跡に指定され、都市景観のひとつとして保存していこうという考えが一般的のようですが、このような生活空間が注目されることはあまりありません。
外濠の持つ歴史的な価値を、単なる景観の保存に留めない為にも、周辺を含んだ「まち」としての外濠の魅力を描き出し評価してあげることが必要ではないでしょうか。
 
 
 
今を知るために過去(明治・大正期)を描き出す
 
「私は四谷見附を出てから迂曲した外濠の堤の、丁度その曲角になっている本村町の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。」

 
これは、永井荷風が『日和下駄』の中で、大正期の外濠周辺の風景について語った言葉ですが、この時代この辺りの風景がいかに見事であったかが分かります。
 
 明治から大正にかけての期間は外濠にとってとても重要です。それは、江戸時代まで武家地であった外濠集周辺が、明治初期に武士がいなくなることから一度は衰退し、明治中期以降に有力者の屋敷街として再生・形成され一つの完成を見るのがこの時期だからです。明治・大正期の外濠空間は、むしろ江戸のそれより魅力的で、ある意味では都市空間として成熟しています。この時に形成された空間の特性が、現在の外濠空間に強く影響を与えおり、この近代外濠空間を調べることが現在の外濠空間を理解することにつながります。
 つまりこの研究の目的とは、近代外濠空間を描き出すことで、現在の外濠空間の性質と未来への展望を、浮かび上がらせていくことにあるといえるのです。